JBIC ヒストリー vol.1
1950年に遡る国際協力銀行(JBIC)の歴史は、戦後日本の対外金融政策史と共にある。この新連載では毎回1つの年に着目し、JBICの歴史を振り返っていく。


輸銀設立のキーパーソン、ジョセフ・ドッジ(左)と池田勇人蔵相(中)の協議(1951年)©朝日新聞社/アマナイメージズ
戦後インフレの収束後、日本は輸銀設立構想をぶつけた
太平洋戦争の終結から5年――。国際協力銀行(JBIC)は、1950年12月に設立された日本輸出銀行(輸銀)をその前身としている。輸銀の設立構想は、同年5月の池田勇人大蔵大臣と米国の金融政策顧問ジョセフ・ドッジとの会談から始まった。
敗戦直後の日本ではあらゆる物資が不足しており、国民の生活は貧しかった。だがGHQは貿易を厳しく制限し、最低水準の生活維持に必要なもの以外の輸入を禁じた。やがて米国の対日占領政策が変更されたが、その背景にはアジアとヨーロッパの経済を強くすれば共産主義の進出を止められるという考えが強まったことなどがある。
47年3月には「日本経済推進計画」が策定され、日本経済を復興させるには、まず十分な食糧や原材料を輸入させ、原材料を輸出品の製造に充てさせる必要があるとした。つまり、輸出こそが復興の起爆剤になり得ると考えたわけだ。
当時の日本では深刻なインフレが発生しており、ドッジは49年にドッジ・ラインと呼ばれる均衡財政を実施。インフレの収束には成功したが、今度は日本国内でデフレに対する不満が高まった。そこで50年5月、吉田茂首相の命を受けてワシントンへ向かった池田蔵相は、ドッジと会談。輸銀設立の構想をぶつけた。
当初は輸入金融が認められず、日本輸出銀行として設立された
池田蔵相はデフレ緩和のためにも輸出を振興する道を模索していたが、一方のドッジは、日本からの輸出金融を後押しすることでアジア諸国の経済復興につなげたい思惑から、構想を好意的に受け止めた。しかし、事はそう単純にはいかない。この会談で梯子を外された格好のGHQが異を唱えた。池田蔵相が正式ルートであるはずのGHQを差し置いてドッジと直接協議したことが、GHQには不愉快だった。
10月、ドッジはGHQのトップであるマッカーサーの顧問として来日し、この構想は「輸出金融金庫設立要綱」として日の目を見る。以後、12月の輸銀法案成立までの2か月間、熾烈な駆け引きが行われた。池田蔵相は当初、輸出入銀行案を推していたが、ドッジは最後まで輸入金融については認めなかった。輸入は国内消費と同じであり、日本は国内消費を抑制し輸出に充てるべきという強い主張があった。
こうして設立された輸銀の業務は当初、設備と技術の輸出に対する金融に限定されていたが、時を同じくして朝鮮戦争が起こり、日本は特需に沸く。52年4月には業務範囲に資源の開発輸入に必要な資金を貸し付ける輸入金融などが追加され、名称を日本輸出入銀行と変更。日本は貿易立国として経済復興へと力強く歩み出していった。