JBIC ヒストリー vol.2
戦後日本経済史と共に振り返る、JBICの前身「日本輸出入銀行(輸銀)」の歩み。日本は3つの壁を乗り越え、1964年にOECD加盟を実現した。


世銀に融資を受けた東海道新幹線が東京五輪開催に合わせて開通(1964年10月)。同年4月、日本はOECD加盟を実現した ©朝日新聞社/アマナイメージズ
ブレトン・ウッズ、GATT、戦後賠償。立ちふさがった3つの壁
終戦直後、資源の少ない日本にとって、貿易立国の道を確立することは必須であった。世界経済システムへの参画を模索する日本に、立ちふさがったのは3つの壁である。
1つ目は、世界銀行・国際通貨基金(IMF)を軸にした米国中心の国際金融システム「ブレトン・ウッズ体制」への参加。2つ目は、世界貿易機関(WTO)の前身「関税及び貿易に関する一般協定(GATT)」への加盟。そして3番目が戦後賠償問題の解決。これらの壁を乗り越え、高度経済成長を実現した日本は、1964年に経済協力開発機構(OECD)加盟を果たすことになる。
日本政府が世銀・IMFへ接近したのは50年4月、池田勇人蔵相が米国の金融政策顧問ジョセフ・ドッジと輸銀設立について協議した時のことだ。経常収支の赤字がつきまとう日本経済にとって、ブレトン・ウッズ体制により外貨の融資を受けられる利点は大きかった。当初GHQの反応は冷淡だったが、マッカーサーが解任されると事態は好転。米国の支援を受け、52年8月には世銀・IMFへの加盟が実現した。
世銀により、日本は戦後復興に必要な外貨の借り入れができるようになる。融資は東海道新幹線、東名・名神高速道路、黒部ダムといった多くの経済インフラの整備に使われ、日本の高度経済成長の土台となった。
次なる悲願は、GATTへの加盟だった。52年7月には正式に加盟を申し込んだが、欧州諸国の思わぬ反対に直面。欧州には戦前の日本の繊維製品のダンピング輸出への警戒が根強く残っていた。米国の支援により、ようやくGATTに加盟したのは55年9月で、加盟後も日本の繊維輸出は自主規制を余儀なくされたが、GATT加盟は日本の国際社会への復帰にとり象徴的な意味を持った。日本の輸出はその後、繊維から重化学工業へと拡大を遂げ、高度経済成長の主力エンジンとなる。
戦後賠償の支払いと輸銀。非欧米として初のOECD加盟
サンフランシスコ講和条約締結により、戦争被害を受けた国々との戦後賠償の交渉が加速したのもこの時期のことだった。日本はまず東南アジア諸国との貿易関係を正常化させるべく、賠償問題の解決を図った。
賠償の支払いは55年から開始され、輸銀は賠償に伴い供与された経済協力案件の融資面の中核を担う。日本の経済協力はこの賠償支払いが始まりである。日本は産業の高度化で成長した鉄鋼や船舶、機械類といった重化学工業製品やプラントの輸出を拡大した。これにより、輸銀の輸出金融、海外投資金融等の活動も活発化。輸銀は日本の高度経済成長を金融面で支えた。
こうして日本は64年4月、非欧米諸国として初のOECD加盟を実現。先進国としてより責任を求められる立場となった。
■世界経済システム参画と
先進国への歩み
1952年 | 8月 | 世銀・IMFへの加盟 |
---|---|---|
1955年 | 9月 | GATT加盟 |
1956年 | 12月 | 国際連合(UN)加盟 |
1960年 | 12月 | 池田勇人首相 「所得倍増計画」発表 |
1963年 | 6月 | 黒部ダム竣工 |
1964年 | 4月 | OECD加盟 |
10月 | 東海道新幹線の開通、東京五輪の開催 |