JBIC ヒストリー Vol.5
1997年、タイで通貨危機が発生、新興国市場へと金融不安が飛び火した。その時、JBICの前身「日本輸出入銀行(輸銀)」は日本のアジア支援の中核を担った。


1998年10月、IMF と世界銀行の年次総会での宮澤喜一蔵相とロバート・ルービン米財務長官の会談の様子。新宮澤構想は、同10月にアジア蔵相・中央銀行総裁会議において発表 写真:ロイター/アフロ
加速する貿易・投資の自由化と東アジアの奇跡
日本は1985年のプラザ合意に始まる円高以降、対外直接投資を急激に拡大させ、重要な対外投資国の一つとなった。なかでも、東南アジア諸国に生産ネットワークと輸出拠点を構築することが、日本の重要な対外投資戦略に位置付けられた。
90年代には貿易や投資の自由化もさらに加速し、95年に世界貿易機関(WTO)が発足。金融市場のグローバル化が進み、民間資本による開発途上国への投資が飛躍的に増加した。アジア諸国では目覚ましい経済成長が続き、流動性の高い短期資本投資が大量にこれらの地域に流れ込んだ。
しかし、97年にアジア通貨危機が発生。「奇跡」とまで呼ばれたアジア諸国の経済成長には冷水が浴びせられることになる。
その背景には世界経済のグローバル化、金融のグローバル化に伴う国際金融システム自体の脆弱性があった。ほとんどの新興市場諸国では、内外資本取引が当時すでに自由となっていた。そんな中で、国際収支構造のもろさが露見する。
97年7月2日、タイ政府によりタイ・バーツの管理変動相場制への移行が発表されると、バーツが大幅に下落。直ちに周辺のASEAN諸国や韓国に投機的な通貨売りが伝播した。これにより、アジア各国に深刻な経済危機が波及し、政治・社会不安までもが引き起こされた。
この危機は98年に入ると、ロシアやブラジルにまで広がり、世界的な金融不安へと拡大。連鎖は、米国のウォール街にまで及び、米大手ヘッジファンドLTCMが破綻する事態に至った。
次々に波及する金融危機、新宮澤構想で経済再生に一役
これを受けて、日本政府はIMFや世界銀行などからなる国際的な枠組みや独自の支援を通じ、アジア諸国の経済困難の克服や国際金融資本市場の安定化に向けて対策を急いだ。
「新宮澤構想」と呼ばれる2国間支援としては関係国中で最大規模、総額300億ドルの支援では、輸銀も総力を挙げ機動的に関わった。世銀などとの協調融資による金融セクター調整融資、現地製造業支援のための政府系金融機関向け融資(ツー・ステップ・ローン)、インフラ整備事業への資本協力などを実施して事態の収束に取り組み、日本のアジア支援において輸銀は中核的な役割を担った。
2000年3月までに総額3兆5000億円規模の累次支援を行うことで、輸銀はその後の東アジア経済の力強い経済再生に貢献した。
99年10月1日、輸銀は海外経済協力基金(OECF)との統合による国際協力銀行(旧JBIC)の誕生をもち改組したが、その最後は金融のグローバル化という大きなうねりの中で舵取りするという難しい日本の政策課題に対し、金融面で支えた。
■アジア通貨危機の拡大と
日本の支援
1997年 | 7月 | タイにて通貨危機、 アジア通貨危機の始まり |
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10月 | インドネシア通貨危機 | |
11月 | 韓国で通貨危機 | |
1998年 | 8月 | ロシアで金融危機、世界的金融不安へ |
9月 | 米ヘッジファンドLTCMが破綻 | |
10月 | 新宮澤構想の発表 | |
1999年 | 10月 | 輸銀と海外経済協力基金(OECF)が統合、 国際協力銀行(旧JBIC)誕生 |