特集 地政学・地経学から見える世界①
簡潔に言えば、地政学は現状の分析、地経学は政策の実践。注意しなければならないのは、経済的相互依存に潜む「脆弱性」だ。JBIC調査部長の天野辰之さんが“リアルな”世界の見方を伝授する。

イラスト:大久保ナオ登
米中対立にウクライナ侵攻。地政学リスクへの関心が高まる
冷戦期の米ソ対立に代わり、現在は米国と中国の「新冷戦」が世界を二分している。さらには2022年2月、ロシアによるウクライナ侵攻が勃発。両国の争いも、世界経済に大きなインパクトを与えている。
そうしたなか、改めて注目を集めているのが「地政学」だ。地理的な条件を軸に、国と国との関係性や国家戦略などを分析・考察するアプローチである。例えば、欧州などの陸続きの国は国境で接している隣国の影響を受けやすい、日本などの島国は海上貿易に注力するなど、地政学的視点を使えば「世界の動き」が見えてくる。
こうした世界の動きは、日本の経営者やビジネスパーソン、学生を含む生活者にとっても今や無視できるものではない。8000キロ以上離れたウクライナの情勢が、日本の家庭の光熱費にも影響を及ぼしている。
国際協力銀行(JBIC)は毎年、海外に進出する日本企業にアンケート調査を実施しているが、22年12月公表の最新の調査では、対象企業の85%が「地政学リスクが重要」と回答した(下図参照)。
●出典:株式会社国際協力銀行「わが国製造業企業の海外事業展開に関する調査報告―2022年度海外直接投資アンケート結果(第34回)」
●出典:株式会社国際協力銀行「わが国製造業企業の海外事業展開に関する調査報告―2022年度海外直接投資アンケート結果(第34回)」
ウクライナ侵攻の影響に絞った質問でも、調査対象にロシアやウクライナに進出中の企業はごくわずかにもかかわらず、90%程度がマイナスの影響を指摘している。
そもそも、地政学とは何なのか。そして地経学は、地政学とどう違うのか。
JBIC調査部長の天野辰之さんは、地政学研究にも従事し、22年には米国戦略国際問題研究所(CSIS)の研究プログラム「戦略的日本」に参加して、日本の経済安全保障政策に関する論考を発表した。天野さんの説明によれば、地政学の先駆者とされるのは、19世紀の地理学者・生物学者フリードリヒ・ラッツェルだ。国家は1つの有機的な生命体であるとの前提に立ち、領土が国家のいわば肉体を構成するとラッツェルは考えた。
これがナチスドイツの拡張主義的な思想と結び付いたため、第二次世界大戦後は「地政学」の使用が避けられるようになった。「学という語こそ付いていますが、日本の大学で学問として確立していないのはそのためです」と、天野さんは明かす。
だが1970年代になると、上述のように、国家間の関係などを説明する語として地政学が再び使われるようになる。天野さんによれば「現代の地政学は、国際政治学における『リアリズム(現実主義)』とほとんど同義と言っていいかもしれません」。

JBIC調査部長の天野辰之さん
相互依存が紛争を防ぐ?残念ながら幻想は打ち砕かれた
一方、地政学とともに最近注目が高まっている「地経学」は、地理学と経済学を組み合わせた言葉で、確立した定義はない。「地経学は『地政学的目的のために経済を活用すること』という意味で使われることが多く、現状の分析よりも政策の実践のほうに重心があります」(天野さん)。ロシアに対する経済制裁も1つの例だ。
戦後の国際政治は、歴史的経験から各国の主権を制限し武力紛争を避けることを模索してきた。「その最大の象徴がEUです。19世紀にも20世紀にも戦争を繰り返した欧州は、その反省から第二次世界大戦後は経済的相互依存を強めていきました」
しかしロシアによるウクライナ侵攻は、経済的相互依存が平和をもたらすはずだという幻想を打ち砕く。それほどまでに両国の経済的な結び付きは強かったからだ。14年のロシアによるクリミア併合まで、ウクライナの最大の輸出入相手国はロシアだった。
「さらに視点を広げれば、CPTPP(環太平洋パートナーシップ)やRCEP(東アジアの地域的な包括的経済連携)、IPEF(インド太平洋経済枠組み)といった経済的相互依存を高めるような枠組みも、紛争を減らすことにつながるかと言えば、必ずしもそうとは言えないでしょう」
もちろん、これらの連携の経済的意義は大きいが、紛争防止に関して言えば、それが国際政治のリアリズムだという。
経済的相互依存には「敏感性」と「脆弱性」の2つがあると、天野さんは説明する。ある物資を他国に大きく依存していても、代替品の調達が容易にできるなら「敏感」であって「脆弱」ではない。
「中国が豪州からのワイン輸入を制限した事例のように、脆弱性を突く政策が取られることがあります。経済統合を深めていく際には、相互依存による脆弱性をどう克服するかがポイントになります」

グローバル化とコロナ禍で経済安全保障が日本の重要課題に
企業経営者らが懸念するのは、まさにこうした地政学リスクだ。それを考える上で外せないのが中国と台湾の関係である。
台湾を領土の一部とする「一つの中国」を主張する中国、独立志向を強める台湾、そして台湾の安全保障に関与する米国。この均衡を破ってでも、いま中国が台湾の統合にこだわる理由は、地政学的に分析すれば、台湾の地理的な重要性にある。
中国やロシアは国境の警備を固める大陸国家(ランドパワー)、米国や日本は領海を含む一定の海域を支配する海洋国家(シーパワー)に分類できる。ランドパワーとシーパワーは衝突する可能性が高いという理論が地政学にはある。
「シーパワーに取り囲まれ、脅威にさらされているという認識を持つ中国は、海洋進出を志す意識が強い。太平洋に出入りする要衝である台湾については、もちろん中国成立にかかる歴史的な経緯があるものの、海洋進出の側面も見逃せません」と天野さんは分析する。
それでは、日本の立ち位置はどのように考えればいいのだろうか。
国際情勢が緊迫化するなか、岸田政権の目玉政策の1つが経済安全保障だ。経済安全保障とは、要するに「国家の存立を危うくするような経済面の脅威から国の安全を守ること」を意味する。
具体的には、経済的自立に必要な半導体や食糧、石油や鉄などの資源……。経済安全保障が重要課題に挙げられるのは、「冷戦後のグローバル化により経済的相互依存が進んだことで、脆弱性が高まった面もあるからです」と、天野さんは指摘する。
米中の覇権争いやコロナ禍による自由な経済交流の喪失で、米国が主導してきた自由主義経済を基調とする国際秩序は弱体化した。コロナ禍で混乱が生じたサプライチェーンの強靱化や経済の脆弱性克服は、日本にとって課題となっている。
※「ブラックスワン」とは予見が困難で起こる確率は低いものの、発生した場合には甚大な影響をもたらす事象を指す。「灰色のサイ」は高い確率で深刻な問題をもたらすが、軽視されがちなリスクの意
米中とも国内均衡を重視。板挟みの東南アジアからの期待
22年10月、米国はバイデン政権として初の「国家安全保障戦略」を公表。主要な競争相手として中国を名指しした。
「米国の当面の対中戦略は、意図しない偶発的な紛争を避けながら、戦略的安定性を確保することにあると考えます。つまり、軍事力を背景に睨み合うけれど、喧嘩はしないということですね」(天野さん)
一方、同じ10月の共産党大会で習近平国家主席の3期目続投が決まった中国も、自国の強靱化の必要性を強調している。米中ともに国内均衡を重視するが、米国の場合は日本をはじめとする同盟国との協調にも重きを置いている。
日本の強みは、日米間の強い同盟関係に1つの特徴があるが、それだけではない。シンガポールの研究機関が行った22年のASEAN各国の意識調査によると、「日本が世界の平和と安全、繁栄とガバナンスのためによい貢献をすると信頼しているか」という質問に、54%の回答者が「非常に信頼している」「信頼している」と回答。中国、米国、EUを上回る信頼度だ。
12年の第2次安倍政権の発足以来、日本は「地球儀を俯瞰する外交」や「積極的平和主義」を掲げるなど、独自の外交戦略を描いてきた。その真価がいま問われていると言えるかもしれない。
「中国と米国の間に挟まれ、どちらにつくことも望んでいない東南アジア諸国は日本に強く期待しています。この期待に十分に応えられるのか、そして経済的な実力を一層効果的に活用できるのかが、日本の課題になるでしょう」(天野さん)
自分には直接関係のない国際政治のトピック――などと考えてはいけない。政府だけでなく、企業も個人も、地政学・地経学的な思考を持ち、世界をリアリズムで見る姿勢がますます求められている。


国際協力銀行
調査部長
天野辰之(あまの・たつし)さん
1995年入行。産業/地政学研究も行い、2022年には米国戦略国際問題研究所(CSIS)の研究プログラムに参加。東京大学法学部卒業。ペンシルヴァニア大学ロースクール修了。NY州弁護士