JBIC ヒストリー vol.3
1973年の第1次石油危機により、日本はエネルギー政策の転換を迫られる。その時、JBICの前身「日本輸出入銀行(輸銀)」は事態の収束に金融面で貢献した。


石油危機により社会がパニックに。消費者は買い占めに走った(1973年11月)。翌年、日本は戦後初のマイナス成長を経験 ©朝日新聞社/アマナイメージズ
原油価格が高騰、好景気が一変。日本経済も狂乱物価に
1970年代、世界経済はインフレと不況が同時進行するスタグフレーションに直面する。その発端となったのが、73年の第1次石油危機であった。10月に勃発した第4次中東戦争をアラブ側に有利に展開させるため、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)は原油価格の大幅な値上げと供給制限を決定。原油公示価格は3か月弱で約4倍に高騰し、世界に激震が走った。
とりわけ資源の多くを輸入に頼る日本経済への影響は甚大であった。高度経済成長を遂げ、経済大国へと導いた好景気は一変。不安感が国民に広がり、石油製品、トイレットペーパー、合成洗剤などの買い占め騒動を招く。74年の経済成長は戦後初のマイナス成長となり、以降も経済成長率は減速し、日本経済は低成長の時代へと移行した。
先進諸国は相互間の協力を図るため、75年11月、フランスのランブイエで第1回の主要先進国首脳会議(サミット)を開催。その後、第1次石油危機は中東産油諸国による原油生産削減の緩和、対米禁輸の解除により一応の終結を見たが、原油価格の高騰は定着し、石炭、天然ガス、ウランなどのエネルギー価格にも波及。
1979年2月のイラン革命や80年9月に勃発したイラン・イラク戦争の影響が重なり、国際原油価格は約3年間で約2.7倍にも跳ね上がる第2次石油危機が勃発。日本でも再び物価が上昇したが、第1次石油危機後に進んだ省エネや経済・金融面での対策により、大きな混乱は回避した。
第1次石油危機後、迫られる転換。輸銀法が改正され収拾に一役
第1次石油危機の影響を鑑み、75年12月に政府は「総合エネルギー政策の基本方向」を取りまとめる。これにより、輸入石油依存度の低減、石油代替エネルギーの多様化が目指され、エネルギー政策が一層強化された。輸銀はこれを受け、石油や液化天然ガス(LNG)、一般炭などの資源関連融資を拡充した。また、輸銀の資金は産油国への経済協力により石油供給の確保を図る石油外交にも活用された。
国内の産業構造も大きく変化した。省エネ圧力の中で極端な採算悪化に苦しみ構造不況に陥る業種や、自ら貿易や海外投資に乗り出し海外市場を開拓しようとする中小企業も顕在化。そのため政府は輸銀の支援体制を強化。76年には日本輸出入銀行法の一部が改正され、借入限度額の引き上げや、資金調達方法としての外貨債券の発行が盛り込まれ、中小企業が輸銀資金をより円滑に活用できる体制が整った。
エネルギー資源の安定的な供給確保は国の将来を左右する。石油危機が日本に突きつけた課題は、エネルギー政策の大転換を促すとともに、国内金融の存在感を高める契機ともなった。
■石油危機と日本政府・輸銀の対策
1973年 | 10月 | 第4次中東戦争の勃発(第1次石油危機) |
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11月 | 日本で買い占め騒動 | |
12月 | 原油公示価格大幅引き上げ | |
1975年 | 11月 | 第1回主要先進国首脳会議 |
1976年 | 6月 | 日本輸出入銀行法一部改正 |
1979年 | 2月 | イラン革命(第2次石油危機) |
1980年 | 9月 | イラン・イラク戦争 |