特集地経学リスク時代の企業戦略
ルールに基づいた自由貿易という前提が崩れつつある。こうした変化は、海外でビジネスを展開する日本企業にとっても無関係ではいられない。地経学研究所長の鈴木一人さんと、JBIC常務取締役の菊池 洋との対談を通して、大きく変わりつつある世界の中で、日本や日本企業が生き残る道を地政学・地経学の観点から探る。
(左)
地経学研究所長
東京大学公共政策大学院教授
鈴木一人さん
北海道大学公共政策大学院教授、米プリンストン大学国際地域研究所客員研究員、国連安保理イラン制裁専門家パネル委員などを経て、2020年から東京大学公共政策大学院教授、22年から地経学研究所長。英国サセックス大学大学院ヨーロッパ研究所博士課程修了
(右) JBIC 常務取締役 菊池 洋 1991年、日本輸出入銀行(現JBIC)に入行。初代調査部長、経営企画部人事室長、審査・リスク管理部門長、企画部門長などを歴任し、2024年6月より常務取締役を務めている。リスク管理や企画運営の豊富な経験を生かし、経営全般の統括に従事している
地政学とは、地理的条件や資源配置が国家間のパワーや安全保障にどのような影響を及ぼすかを分析する考え方。近年は、関税、資源、技術、サプライチェーンなどの経済的手段が国家間対立の「武器」として用いられるようになり、経済安全保障の視点を組み込んだ「地経学」が注目されている。国家戦略だけでなく、企業の投資判断や事業戦略にも直結する重要な視座となっている。
経済を「最強の武器」に変える、地経学が揺さぶるサプライチェーン
鈴木 まず、私たちが立っている土俵を整理しましょう。伝統的な「地政学」は、地理的条件が国家間のパワー、特に軍事力による勢力争いにどう影響するかを分析する枠組みです。日本のように周囲を海に囲まれた島国は、外敵の侵入を直接受けにくい「海洋国家」であり、一方でロシアやドイツは、隣接する国々へ同心円状に勢力圏を広げようとする「大陸国家」である、といった分析になります。
地経学研究所長の鈴木一人さん
それに対して、近年重要性を増している「地経学」は、その軍事力を「経済的手段」に置き換えたものです。そのパワーの源泉を軍事力ではなく、経済的な「不可欠性(他が代替できないものを持っていること)」に求めます。例えば、「特定の国しか持たない希少資源」や「代替不可能な技術」を握っていることが、他国を依存させ、それを武器として政治的目的のために使われる。
典型的な事例が、中国によるレアアースの供給網です。これを事実上独占し、他国が依存している状態を逆手に取っています。また、米国による同盟国を含むあらゆる国を対象とした一方的な関税措置も、相手国が自国の巨大市場に依存しているという弱みを突いた、地経学的な手法と言えるでしょう。
こうした状況に対抗するには、他国への依存を減らし、自国の「戦略的自律性」を高める動きが必要となってきます。経済的な「チョークポイント(供給網の結節点)」を握る力関係を分析し、「不可欠性」と「自立」のせめぎ合いを考えることが、地経学の核心部分となります。
菊池 現場の視点から見ても、経済の依存関係に付随するリスクが、経営課題の最優先事項になっていると痛感します。冷戦後の約30年間、企業はグローバル化を「リスクフリーな前提」として、経済合理性のみで判断してきました。2001年の中国の世界貿易機関(WTO)加盟を象徴として、世界は自由貿易体制をベースに最適化していけばよかった。コスト効率を徹底的に追求することが「勝ち筋」だったのです。
国際的なルールが機能し、自由貿易が続くという「土台」の上に経営判断を積み上げることができました。経営者は採算性や技術、法律面を考えればよく、国際情勢は一種の「定数」として扱うことができたわけです。しかし今、その土台自体が揺らいでいます。一言で言えば、「サプライチェーンの考え方の変化」です。安さよりも「安全性」を考えなければならない。これが経営判断の根幹を揺さぶっています。
JBIC常務取締役の菊池 洋
鈴木 これほど地経学が注目されるのも、かつての「政治と経済の分離」というルールが崩壊したからです。以前は自然災害やテロといった「不可抗力のリスク」に対応すればよかったのですが、今は「ルールを無視した経済的威圧」が、政治の道具として戦略的に使われています。
自由貿易が進めば進むほど国際分業が発達し、各国は他国への依存度を高めました。平時であればリスクフリーな効率化ですが、ひとたび特定の国がその「独占的地位」を政治の道具として使うことに目覚めると、経済は「最強の武器」に変わります。WTOの紛争解決機能がまひしている現状では、経済大国がそのパワーを武器化する誘因がかつてないほど高まっているのです。これがルールに基づかない「エコノミック・ステイトクラフト(経済的手段による国益の追求)」の時代です。
「政冷経熱」モデルの終焉、調達先の多角化を長期スパンで
菊池 日本企業も、この変化に敏感に反応しています。象徴的なのが、対中感情の変化と投資先のシフトです。かつては「政冷経熱」という言葉があり、政治が悪くても経済は別物だという、ある種の楽観的な期待がありました。しかし、2010年に中国のGDPが日本を抜いたあたりから、その前提が成り立たなくなりました。政治が冷え込めば、経済もダイレクトに冷え込む。それが今の常態です。
JBICが毎年実施している企業アンケート調査「わが国企業の海外事業展開に関する調査報告(GLOBE)」を見ても、興味深い動きが表れています。以前は中国が圧倒的な人気を誇り、事業展開先有望国・地域ランキングでも長年1位か2位を占めていました。それが23年の調査では3位に後退し、さらに24年には過去最低の6位となりました。最新の25年調査では5位に戻したものの、日本企業の調達・販売先の多角化の傾向は、すでに定着しつつあります。
得票率の推移(2005~25年)
事業展開先有望国・地域ランキングは、回答企業に中期的(今後3年程度)に有望と考える事業展開先国名を最大5つ挙げてもらい順位にしたもの
直近では、北米、すなわちUSMCA(米国・メキシコ・カナダ協定、旧NAFTA)圏への関心が高まりました。バイデン前米政権の発足当初には、「メキシコ経由で再び自由貿易ができるのではないか」という期待が一時的に広がったためです。
しかし、25年のトランプ第2期政権の始動を経て、そうした見方は次第に後退しました。時間が経つにつれ、米国の人気が上昇する一方で、メキシコの人気が低下するという動きが見られています。その結果、米国本国への投資シフトがより鮮明になった形です。日本企業も米中対立の長期化を見据え、「かつての良い時代には戻らない」との認識を強め、より直接的に米国市場への投資に舵を切る傾向が表れています。
鈴木 私はこれを「根拠のない楽観の終焉」と呼んでいます。バイデン政権は1期目のトランプ政権の政策を否定するどころか、むしろ強化した内容で私自身は「トランプ1.5政権」と表現しています。環太平洋パートナーシップ(TPP)協定に復帰することもなく、対中半導体規制も一段と強化しました。米国民の間に「中産階級を守るための通商政策」という強いコンセンサスがある以上、大統領が誰であろうとこの地経学的な流れは止まらないでしょう。日本企業はそれを前提に「リスクのポートフォリオ」を組み直しているように見えます。
日本企業には、ユニークな特徴があります。通常、たとえ政府が「地経学リスクがあるから中国依存を減らせ」と号令をかけても、企業は「安い方が利益が出る」と合理的に抵抗するものです。しかし、日本企業は総じてリスク認識が高く、政府が動く前に先回りして調達先の多角化を進めようとします。経済合理性だけを見れば、あえてコストの高い代替先を選ぶのは「損」に見えるかもしれません。
それでも日本の経営者は、地経学リスクを回避するために、自らコストを負担し、リスクポートフォリオを組み替えている。これは、短期的な四半期決算を重視しがちな欧米企業とは対照的な、長期スパンの視点と言えるでしょう。
菊池 それは同時に、「低成長の国内市場」という別のリスクの裏返しでもあります。確かに国内での完結で地経学リスクは低減するでしょう。しかしその一方で、市場規模の制約に直面します。実際、今、日本企業は海外売上高比率40%超という過去最高水準を維持しています。
結局、「国内に戻れば安全だが成長は望めない。海外に出れば成長はあるが地経学リスクがある」。この2つの制約のはざまで、日本企業は判断を迫られています。その際、これまでの効率性一辺倒から、多少のコスト増という平時の痛みを受け入れてでも、有事の断絶を防ぐ、いわば地経学的な「保険」をかけるフェーズに入っているのです。
半導体は経済と安全保障が交差する最前線。技術力、投資先、供給体制の選択が、企業と国家の競争力を大きく左右する
インドという複雑なフロンティア。「地経学的ハブ」にできるか
菊池 サプライチェーンの「多元化」先として、近年よく名前が挙がるのがインドです。GLOBEでも、事業展開先有望国・地域ランキングで中国と長年トップ争いを続け、22年以降は4年連続で1位となっています。その潜在力は誰もが認めるところでしょう。ただ、実務の現場では「期待は大きいが、ビジネス上の課題も多い」というジレンマも根強くあります。
鈴木 インドは本当に独特な国です。インフラ面の課題に加え、連邦と州で異なる制度や規制の解釈、官僚主義や「組織」より「個人」が前に出やすい文化。日本的なチームプレーを前提に進出すると、思わぬところでつまずきます。一方で、モディ政権は米国ともロシアとも関係を保ち、中国とは緊張を抱えつつバランスを取るという、極めて柔軟な外交を展開しています。この複雑さそのものが、インドの地経学的な強みでもあります。
この「バランス外交」の国をハブに据えることは、日本企業にとって大きな挑戦です。ただ、インドで成功している企業には共通点があります。インドの空調市場で存在感を持つダイキン工業や、乗用車市場で約4割を占めるスズキ(マルチ・スズキ・インディア)は、現地で徹底的に鍛えられることをいといません。彼らが口をそろえて言うのは、「インドで通用する製品やコスト感覚を身につければ、アフリカや中東でも戦える」という点です。
インドを単なる市場と見るのか、それともグローバルな「地経学的ハブ」や「鍛錬の場」と位置づけるのか。その戦略眼が、今後の海外展開の明暗を分けるでしょう。
「不可欠性」を磨く、経済安全保障という戦略
鈴木 トランプ政権がグリーンランドに強い関心を示すのは、そこに戦略的資源が存在し、それが対中依存を克服する手段となり得るからです。今や、地経学と安全保障はコインの表裏です。そう考えれば、JBICのファイナンスも単なる経済支援ではなく、日本の経済安全保障を下支えする役割を担うべき存在です。
菊池 私たちも、その責任を強く意識しています。地経学リスクが安全保障と一体化する中で、JBICの役割は「社会課題解決」にとどまりません。優先度が上がっているのは、サプライチェーンの強靱化です。例えば、チリでの銅鉱山開発やブラジル国営石油会社との脱炭素案件への融資は、重要資源の確保につながります。また、半導体業界においても、日本企業の国際競争力の維持・向上に必要となる海外投資などを支援しています。いずれも、資源・技術・供給網という日本の脆弱性に直結する領域を意識したものです。
これからは、単に価値観が近い「同志国」であるだけでなく、「利益を共有できる関係かどうか」が問われます。ウズベキスタンの太陽光発電や、エクアドルの港湾コンテナクレーンへの融資は、電力不足や物流改善といった相手国の切実な課題に応えることで、「日本は不可欠なパートナーだ」と認識してもらう狙いがあります。地理的に離れていても、「日本がいないと困る」という存在になることが、結果的に日本の安全保障につながります。
鈴木 その際に重要なのが、戦略の「透明性」です。地経学の時代には、純粋な経済投資であっても、一部の国の対外的な宣伝によって、政治的意図があると色づけされがちです。だからこそ、日本がなぜその国に投資するのか、善意だけでなく戦略的な重要性や利益の一致を明確に語る必要があります。その方が、かえって信頼を得やすいのです。
菊池 ASEANも同様です。日本側には、長年の平和的な経済外交の積み重ねを理由に、相手国は「親日的であるはず」という前提意識がありました。しかし今、ASEAN各国は中国の巨額投資と米国の安全保障の間でシビアに立ち位置を見極めています。日本というだけで歓迎される時代は終わりました。先人の積み上げた日本への信頼を基盤にしつつも、それに甘えずに、真に重要な課題に対し、日本にしかできない技術と解決策でその国の成長に深く関与していくことが不可欠です。
鈴木 資源国ではない日本が、石油や食料で世界を支配することはできません。しかし、半導体材料、工作機械、航空機用炭素繊維など、「日本がいないと困る」分野は確かに存在します。特定の国に効く、こうしたチョークポイントをどれだけ戦略的に握れるか。それが日本の生きる道です。
菊池 そのためには、継続的なイノベーションが欠かせません。JBICとしても、スタートアップ支援に加え、フュージョン(核融合)など次世代技術への投融資を進めています。成功が保証されない分野にも、あえて網を張る姿勢が必要です。
鈴木 地経学の世界に、全員が得をする「ウィン・ウィン」はありません。依存を減らすには必ずコストがかかり、誰かが痛みを引き受ける必要があります。平時に小さな痛みを受け入れることで、有事の致命的な痛みを避ける。その覚悟が企業経営者には求められています。
2025年7月~8月にかけてJBICが実施・回収した日本企業の海外事業展開の動向をまとめた調査で、製造業・非製造業合わせて計733社より回答。報告書全文はオンラインで公開されている





